昭和52年2月18日 月例祭 ●①、②、⑨



 えー、近年にない寒さが毎日続いております。もう、どこもここも大雪で、その被害は甚大なことになっておるそうです。
 昨日の、テレビで報じておりました中に、えー、水道管が凍りついて、えー、水が出なくなった。ほれで、えー、水道管を新聞紙に塩をつけてこうやって、暖めておる。それが、その何かに燃え移って火事になった。
 火事になった、燃え上がったから、さぁ消そうと思うても、水道管は凍て付いておるといったような、皮肉な現象。
 私はそれを見せて頂きながら、本当に、この、人間の天地の御恩恵に対するお礼の足りない、一つの現れであるという風に思わせてもらいました。本当に水道が破裂したり、止まってしもうてから、もらい水をさせてもろうて、始めて水の有り難さが分かり。
 ね、それこそ、火でも、火の用心ということは、ね、火を用心するということは、私は火を大切にする、ということだと思うんです。ね、用心する、何かもう、怖いもの、悪いもののように用心する。それではおかげになりません。火を大切に頂くということです。
 火を大切にしておれば、火事など起こりようがありません。そのお粗末御無礼が、そういう思いもかけない災難になってくるのでしょうが、金光様のご信心を頂かせてもろうて、ね、いよいよ、段々、分かれば分かるほど、お礼を申し上げることであることばっかりであることに気が付きます。
 いうならば、神恩報謝の生活が出来るということが、お道の信心の、いうならば根本だと思います。ね、人間が、天地の大恩、いうなら、御恩恵に対して、日々有り難い、勿体無い、自分の周囲、周辺を眺めてみればみるほどに、そのおかげの中に包まれておる私共。
 それが実感として、今日もお生かしのおかげを頂いて、過去恵まれておるということに対するお礼が、本当なものになって行くということが、お道の信心が、本当なものになって行くということに通ずるのです。
 二代金光様、四神様のみ教えの中に、「この方の信心は、病気治しやら災難除けの神ではない。心治しの神じゃ」と。と教えて下さる。そういう意味では、なら合楽でも、もうそれこそ、口が(スユナル?)ように私が、皆さんに聞いて頂いておるわけであります。
 ところが、不思議なことに、お道の信心を頂かせてもらいますと、確かにおかげが受けられる。ご利益が頂かれる。そこで、そうだと分かっておりながら、それこそ雪の道ではないですけれども、ね、分かっておりながら、すべって転ぶというようなことになるのです。ね。
 ●①「心得ていながらすべる雪の道」●であります。金光様の御信心は確かに、ね、お話ば頂けば、頂くほどに、病気治しじゃないぞ、災難除けの神ではないぞ、心治しの神ぞ、信心とは、和賀心が神に向こうて、進んでいくということが信心だぞと。
 「信心とは、本心の玉を磨くものぞや」「信心とは、日々の改まりが第一ぞ」と教えて下さる。ところが和賀心が神に向こうどろこではない、本心の玉を磨くどころではない。ね、日々の改まりも一向に出来ないというようなことで、一日が終わり、一年が終わり、一生が終わってしまうというようなことでは、真にあいすまんことになり、また、結果になるのでございます。
 二、三日前頂きました御理解の中に、磨きます。改まりますとて、年が暮れてきたかと。まぁせんりょうの口調ですよね。改まる、ほんな神様をごまかしよる。はー、改まりますから、磨きますから、どうぞどうぞというて、信心になりますからというて、なかなか信心にはならん。
 といいながら、そして、神様から見事にだまされたようにして、おかげを下さってあるんだけれども、これはいうならば、天地に対することの借金になっておるようなものですから、これは必ず差し引かれます。
 小倉の桂先生に神様がある時に、汝の信心の徳によって、ね、信心が分かっても、分からんでも願う氏子にどんどんおかげをやっとるけん、授けておけと。この世で支払いが出来ん時は、神があの世までも取りにいってやるぞ、と仰ったということですから、ね、あの世に集金に来てもらわれたんじゃ困るんです。
 ね、ですから、ね、どうでも一つ、信心、本心、信心の、いわば本筋を行くところを、一つ、極めていかなければなりません。
 神様がござるやら、ござらんやら分からないおかげを頂いて、は、なるほど、神様ちゃござるなと、いうようなことが段々分かってくるわけですけれども、そこでおかげを頂き、信心を頂き、そして、お徳を頂くというように、信心が一段一段、本当なものになっていかにゃいけません。
 おかげ頂いて悪いというのではありません。ね、おかげを受けて、そして、信心を頂いて、それから、徳を受けて行くという信心。そこに人間、信心の、根本に触れて行くことになり、人間の根本的助かりとも、いわば、なってくるわけでございます。
 先日、高橋さんのところの、長崎支店の、の支店長をしておったからが、今度は飯塚に店を持ちたいという。それで、店のお名前が頂きたいというので、神様にお願いをさせて頂きました。
 そしたら、●②「鮨三幸」と頂きました。鮨というのは魚偏に旨いとね、感じの鮨です。それに三幸とは三つの幸せと書いてある。鮨三幸。そしてその御理解が、ね、貧争病、真善美と下に書いて頂いた。●
 ね、例えばお鮨を食べ、あんたよか名前がついたのと。鮨三幸さ、この三つの幸せと、だいたい三つの幸せとはどげなことですかと。まぁお客さんが鮨を食べながら、聞くといたしましょうか。
 さぁどげなこつか知りませんじゃいかん。これには、こういういわれがあり、こういう訳があるというて、鮨を握ってやりながら、ね、いうならばお話相手が出来るように、一つ、その、長崎の支店長、○○なんとかいよった、ね。
 ね、一遍お導きをして、信心を分からせなさい。で、これは、御理解、この御理解のことをいうてやりなさいと。ね、人間の幸せというものは、まず貧があってはならない、争いがあってはならない。病気があってはならない。貧争病のない世界に住まわせて頂くということ。
 ね、ところが合楽ではです、もう本当に、十年も信心をしておるならば、もうまず、ほとんどの人がこの貧争病のない世界とは、こういうものかという体験が生まれてきます。
 第一薬箱がいらんようになる。その日ぐらしではあるけれども、困った難儀という、とにかくお取次ぎを頂く、さぁ明日が手形だ。いやもう何時間の後にというて、しゃんとお繰り合わせを頂くのですから、貧乏がないのと同じこと。
 ね、勿論、争いがなくなる。そりゃ、人間のことですから、様々な問題が家庭の上にも起こってまいりますけれども、おかげで一家が信心をしておりますから、そんなら先生にお伺いさせる。
 例えば、夫婦喧嘩させて頂きながらでも、金光様ちいうちから叩きよる。それだけは違うやっぱ。叩かんならまだよかばってんね。というように信心が段々分かってくる。ね、金光様の信心を心に頂きながら、喧嘩をしておる。
 そして、こんなことじゃない。普通はこんなことじゃない。これではね、信心にならんのでございますけれども、すいませんというて、叩きよる。そして、すんだ後にです、本当に心から、神様の前にお詫びが出来るというようなところから、皆さんの信心がいうなら、そういう修行が出来てくるのです。
 ね、そこでね、貧争病のない世界に住むことのために、まず、真【しん】、いわゆる真【しん】とは真である。真とは嘘のない世界。ね、真実一路と。ね、嘘のない生活。善というのは悪のない生活。美とは見苦しいもの。ね、汚いものを自分の心から、自分の周辺から、綺麗にしていこうということなのです。それが真善美の世界。いわゆる真善美輝かんばかりの世界があるのです。
 先日、ここにお参りをされたある教会の先生が、手紙が昨日来ております。一晩泊まりでおかげを頂いて、もうとにかく噂に聞くと、実際に来て見るのというのは、もうそれこそ、大変なちゅうか、いわゆる大変評判が悪いわけですね。
 ですから、行ってみて、第一たまがったことはです、その、子供達の一人ひとりの部屋を回ってみて、これだけの沢山なご兄弟がおられ、子供さんがおられ、家内がおられて、もう実にスムーズな御用が、ね、それこそ一つの歯車に、沢山の歯車がついておって、それが一つが回っておるのに、それに、順応して、歯車のすべてが回っておるという状態に、まずは驚きました。
 実は、私は、私の方の教会も、ね、先生と奥さん。ね、先生と信者の間に、トラブルがあり続けておる。信心しておって、教会であってどうしたことか、といわれるのだけれども、それが現実である。
 合楽の場合はそういうようなものが、まったく見えない。そして、お部屋お部屋に回らせて頂いて、まずたまがることは、先生がいわれる、それこそ、真善美輝かんばかりのお広前だという風に、合楽を表しておられます。
 ね、そこには、私の方には、まずね、嘘がない。悪がない。ね、汚いものが、そりゃありましょうけれども、そういうことに本気で取り組んでおるということなんです。いわゆる、中心の歯車がそうなんです。ね、だからこれに、やっぱおうて回っていきよるということになります。
 一人ひとりの子供なら子供を見て、はーどれが良いの、悪いのというだけの資格のないほどしに、まぁいうならば凡俗ばかりですけれども、その凡俗ばかりが集まって、一つの家庭構成をなしておる。それがなんともいえん雰囲気の中に、毎日毎日、ね、回転のおかげを頂いておるというのを、見て、取って、帰って。ね、このことが一つの驚きであったというております。
 ね、いうならばそういう一つの、まぁささやかな見本というものが、ここにありまして、そして、私がそういう体験の中から、皆さんにお話しを聞いて頂くのであり、神様に頂いたことを、合わせて聞いて頂くのでございます。
 今日、午後から、2時からでした。吉井の杉さんのところで、杉さんの若奥さんのお母さんにあたります、皆さんも、古いご信者はご承知でしょうが。辛島から北川さんというおばあさんがお参りになっておる。もう熱心な、もう実に真面目なご信心をなさっておられました。
 丁度亡くなられまして、今日が五年の帰幽日にあたりましたから、五年の式年祭がもう大変盛大に行なわれました。ご神前に額ずかせて頂いて、亡くなられて五年になるが、果たして五年の間に、どのようなおかげを受けられ、どのような力を受けられたであろうかと、私はご神前で思わせて頂いた途端に、●②神様から頂きますのが、もうそれこそ、もう、それこそ全世界の、この山です。
 もう( ? )な山から山。そこへ若い人がね、スキーのスタイルで、スキーを持ってすべっていっておるところでございました。そしてもう、この( ? )なところは、こうジャンプしてずーっと、その行かれるとこの姿。
 または、その後に、夏山を頂いた。若い方達が、沢山な重いリュックを担いで、そして、えー、頂上を目指して登っておられるという姿である。私はそれを頂いて大変感動いたしました。●
 ね、五年の間に、御霊様が段々精進をなさっておられて、御霊様だからというて、光明世界に住んでおるからというて、もうじっとして、こうじっとしてござる(こっちゃ?)じゃないです。
 様々なやはり問題があり、人間の世界と一つも変わらんです。ね、いうならば、ね、まぁ夏やら冬があろうはずはないけれども、それと同じような意味あいで、夏もあれば、冬もあり、ね、雨もあればあらしもある、というような中に、御霊様はただ自分、その有り難いという一念で過ごしておられる御霊様を、光明世界に住んでおられるというのです。
 ね、いうならば、天地の大恩が分からせて頂いて、生きるも死ぬるも天地の親神様のご恩恵によらなければ出来ることじゃない。「死んだからというて、神のお世話にならんわけにはいくまいが、死に際にもお願いをせよ」と仰るような信心を身に付けていっておられます。
 だから、最近合楽でいわれるところの、合楽理念ということが、私共はこうして、聞いても聞いても分からん。なかなか合楽理念の説明もできない。また行じてもいないという人もありますけれども、この魂の世界に入って信心が神に向こうておる魂はです、もう他にすることがない。もう魂だけの世界ですから、もういよいよ、その合楽理念をマスターすることに、またそれを行ずることに日々、そういう心行を繰り返しておるのが、御霊の実、実際の姿なんです。
 私共も、そうならなければならんのですけれども、そこに生活がかかっておる。感情がまだある。肉体をもっておるから、痛ければ痛い、痒ければ痒い、といったような事で、なかなか心磨きの方へ、いうならば、分かっちゃおるけれども出来てない。心得ていながら、やはりすべったり転んだりしておるということでございます。
 ね、もうこの寒さに、ね、暖房もない、さぁこの山を越さなければならないけれども、どうしたならば、この山を越されるだろうかと、じっとしておるのが、これは、まぁ仏教的にいうならば、地獄の姿じゃないでしょうか。
 ところがね、お互いが信心によってです、いうなら、スキーならスキーの道を、例えば体得させて頂いたら、もうその、それが、楽しゅうして、楽しゅうして、ね、ジャンプしたり、パーと、普通では越せないところを越させて頂くほどしの、いわば元気な心、若若しい心で御霊の生活が出来ておられる。
 御霊の世界にもやっぱりこんな雪もありゃ、雨もありますよ。けれども、雨の時には、傘をささせて頂いてぬれんですむおかげを頂いております、こういう雪の山を登らなければならん時でも、スキーのいうならば、道具を持たせて頂いて、いうなら楽しんで、そこをいうならば、乗り越え、いうならば、進ませて頂いておるということです。
 ●⑨もうただ私共が思いますとね、この例えば暑いのに、リュックを担いで山にわざわざ登らんでもと思うのですけれども、登っておるその、なら登山の好きな若い方達の場合なんか、それが楽しみなのである。
 しかも、それが高ければ高いほど楽しみなのでも。ね、それだけいうならば、自分の視野がひろうなっていくということを楽しむ。信心をさせて頂いてもそうです。この坂が越えるじゃ、越えれるだろうかと思うようなことでも、神様におすがりをする、御理解を頂くとです、ね、その、山を登らせて頂く、しかも楽しゅう、嬉しゅう登らせて頂けれる道を教えて頂く。それが合楽理念です。
 合楽理念とは、ね、生神様へなる道なんです。しかも楽しゅう嬉しゅう、説かせて頂いてある、それが合楽理念だと。確かにそれを、私共がマスターすると、それを体得させて頂いて、ね、合楽理念に基づいての、日々信心生活が出来るようになると、全てが神愛だという事が始めて分かるのです。●
 こげな険しい山ば、どうして登らなんじゃろうか。私はもう本当に、世界中一番の不幸せ者だと思うておった人が、その登る末を生き生きとして、体得した時にです、ね、それを征服することの喜びの方が、大きいということになるんです。
 はー、まぁ難儀な事でしょうね、こんな重いもんば担いで、しかもあげな山ば目指して、しかも炎天のこの最中に、登りなさらにゃ、なそりゃ大変なことですね、といやしないでしょう。
 ね、例えば大きなお腹をしておる妊婦さんの方に、いやー困ったことですねっちゃいわんでしょうもん。ね、やっぱおめでとうございます。何故かと、次に間違いなく、ね、有り難いものが生み為されるところの前提だからなのであります。
 その有り難い信心を、生み為して行くところのおかげ。ね、頂く信心から、生み為す信心と、最近いわれておりますが、ね、ためには、やはりそういうところを辿らせて頂かなければならんのであります。
 昨日、一昨日、大変雪の( ? )でした。一昨日、昨日、一昨日ですね。久留米の矢次さんのところの、一年に一回の宅祭りがございました。長年の信心をしておられて、毎年毎年、まぁ本当に、もう本当に有り難い。
 しかも同心の人達が、もう皆久留米、北野あたりから歩いて参って来た。あの雪の中に。自動車に乗られず。それで、まぁそのまま私は、永瀬さんの車で帰らせて頂きましたけれども、他の方達は皆あちらへ、泊まらせて頂いて、一晩中信心の共励をさえて頂いて、まぁ明くる日帰ったといっておられます。
 ね、信心の生活。家族中のものが、日々おかげを頂いて、一年に一回ぐらい、神恩報謝の真を、ね、現し捧げさせてもらう、お祭りでも仕えさせて頂いて、日々は有り難い、勿体無いの信心が、いわば家庭いっぱいに、広がって行くようなおかげを頂きたい。
 (いきしな?)に●②「おかげは神が授けると。道は氏子が開け」というお知らせを頂いた。おかげは神が授ける。ね、だから、道を開くのは、氏子じゃという訳です。●
 あちらに参りましたら、お部屋に、ん、お部屋に立花のお花がいれてございます。立花といよったですね。どうもあんまり、スキッといかっとらん。誰がいれたっちゃろうか。したら、佐田さんが朝から、御用に行かれてから、もう実は今日習うてきたばっかり。
 もう花の材料は沢山。色々の花があるとです。ね、けれども、まだ、いわば習い立て。今日習うて来たばっかりですから、なるほどまた本当に、その花の美しさというものがないわけです。
 ね、だから、なるほど、私は、おかげは神が授けると仰るのは、様々な、花なら花の材料を神様が、つくって与えて下さるのが神様なんだ。だから、それをいかし、生かすということは、やはり私共なんです。
 ね、それにはやはり、なら生けのぼうなら生けのぼう、という、なら道を体得した人に習わなければ分からない。しかも習うただけじゃない。稽古した上にも稽古させて頂いて行くうちに、それこそスッキリとした、誰が見てもいいなぁと思うような花がいけあがる。
 信心も同じです、んならば、私共は、おかげの材料というものは、もう沢山に頂いておる。もう自分の周辺に、いっぱい頂いておるのです。それを、自分で、ね、ならどういうそれは肉眼においては、難儀な問題というのであれば、あるほどにそれは素晴らしい花なのです。
 そういう難儀を頂きこなす。そういう素晴らしい花を、いけこなすという稽古は、私共がしなければならないという事です。ね、その、いけこなすところの稽古をせずに、ただ、次ぎから次ぎと、おかげを下さい。どうぞ、おー、どうぞというて、ご利益を願うという信心が、いうならば一生続いても、それは、たいしたことじゃありません。
 ね、一年すれば一年。二年すれば二年。今日の御霊様の霊祭を拝ませてもらって、思わせて頂きましたように、五年経たせて頂いたら、御霊様がどういう力を頂いておいでであるだろうかと思わせて頂いたら、それこそ御霊様が若返ってござる。
 もう80からでしたでしょうか。若返って、それこそスキーに、( ? )を固めて、はーしるしい、しるしい、こげな雪の日にちゅうのじゃなくて、喜びいっぱいで、スキーを、まぁ遊んでおられるように、楽しんでおられるように、いうなら、登ったり下ったり、ジャンプしておられる姿である。
 ね、夏山を大きなリュックを担いで、あーきつい、こげなんばどうして担わんならんであろうか、ではなくて。もう、それこそ頂上ば目指して、一歩一歩頂上に近付いて行くということを、もう嬉しゅうして、楽しゅうしてこたえんというような状態である。
 私共の信心生活も、ね、そういう、いうならば術を覚える。道を習わせてもろうて、いきあがっていく、花が見事になっていく。はー、眺めて素晴らしいなぁと、どこから見ても、例えば、第3者の人が見ても、信心とは素晴らしいなぁということになってくる。
 昨日は合楽会で、( ? )の皆さんが色々発表されました中に、そこの合楽食堂の、中村さんが、発表をしておられました。昨日一昨日、一昨昨日でしたか、えー、一昨日です。上野先生のところの、お父さんの( ? )祭があった。で、お供えしたいと思うて、ならここのお食堂にうどんを一箱頼んでおられた。
 とこらが時間だというのに、まだこないもんですから、今ここに徹美君が、今修行に、今年学院に行きます。長男が。それで、その徹美さんに、上野先生がいわれたんでしょう。そのうどんなまだかというて、まぁいいに行った訳。
 ところが、お母さんは、そのコタツに入ってうとうととしておった。それで目の前に、息子が帰ってきておるもんだから、もうここに修行に来たからには、側に例えば家、自分の家があっても、私は自分の私用では帰らないよというて、ここに修行に来ておる。
 それに、目の前に、ぱっと目を覚ましたら、それこそ( ? )ように、そこに息子が立っとるもんだから、びっくりして、いやー徹美さん私は今ね、今あんたが来たお夢ば頂いておるところじゃったというのです。
 ●②ほー、どげな夢じゃったのち。ん、それが今あんたがね、そのみそを持ってきておる。そして、それに、ふをもってきておる。あのふですね、ふ。食べるふです。ふとみそを持ってきて、お母さん、しばらくこれで辛抱していきよってくれんの、というところで目が覚めた。
 目が覚めたらもう、現実そこに息子がたっとるもんだから、あんた、(ひもじ?)になったじゃあれねちいうた。合楽教会では二回、二食しか食べんもんだから、( ? )息子が、うちじゃそうとう食べよったでしょうたいきっと。
 だから、親心に、はー、これは息子が(ひもじゅう?)なったけん帰って来たばいと思うた。ところが、どうしてじゃろうかい、そげん、いくら(ひもしかった?)けんちゅうちから、そげん食べげやら帰ってこんばいち。そげなことなら、あんた修行が修行にならんじゃんのち。というて、その、まぁ息子がいったというのです。
 その朝、あの、徹美君が頂いておるお夢は、一生懸命に鉛筆の芯をそぎって、芯をだしておるところを頂いた。もう私はその話と、御用の話、その神様の働きということの素晴らしいことに、もう本当に感動いたしましたけれども、親も修行しよるなら、子もまた修行しておる。
 それこそ、今までの自分ではいけなかったとして、自分を削って、身を、それこそ身にカンナをかけるようにして、なら修行をしておる。おかげで芯が出てきた。真が出てきた。教会修行ということは有り難いことだ。
 まだ、一月足らずの間に、そういう、自分の身を削る、心を削るするほどしのことが段々出来るようになってきて、そして母親に、しばらく、みそとふで辛抱しておってくれと、先生こりゃどういうようなことでしょうかと。●
 それは例えていうなら、中村さん、例えば親戚やら知った人達が来てから、あんたばっかりは馬鹿んごたるやっちゃあるの、息子ばあんた、金光様の先生どんにいれちからちち、必ず、いうならば、みそをつけるような人があるだろうけれども。そういう人から笑われたり、又は、( ? )たりする、そのこと事態が、ね、徳を受けて行くことの為、お徳ということは、ここでは鯉の、鯉取りですね。
 鯉のお知らせを頂くと、御神徳を頂くという、その御神徳が育っていくことのための餌なんだぞと、みそをつけられても、がんばっていけよと。そこに、とやこう言うなよと。それはお徳がいよいよ太っていく、育って行くことのためのおかげぞ。
 息子も一生懸命に削っておるぞ、芯を出しておるぞ、真を出していっておるぞと。母やもうしばらくは、これで辛抱していけよ、ということだったんです。ね、私共がです、いよいよおかげを頂き、ね、信心を頂き、お徳を頂くという世界に入っていかなかければ、真善美輝かんばかりのおかげということには繋がらないのです。
 金光様のご信心は確かに、この方の病気を、えー、信心は、病気治しの神じゃない、災難よけの神ではないのだけれども、確かにおかげは新たかである。金光様のお徳によって、ない生命が助かったり、ひらけんはずの道が開けたりする。
 信心が分からないでも、頂けるのですから、ね、だからそれに、私共が腰かけることなしに、いよいよ信心を頂き、信心を願い求めてのおかげを頂かせてもろうて、ギリギリは、お徳を頂かせてもらうところの信心に進んで行かなければならんということです。
 ね、「改まります。ね、磨きますで、年も暮れ」ではいけんのです。一生ただ、おかげ、おかげで終始しておったでは、あいすまんのです。ね、あの世にも持っていかれ、この世にも残しておかれるというほどしのおかげ、その信心の稽古というのは、今日北川のおばあちゃんの御霊様の、そのことではないですけれども、例えば、例えば、極寒の雪の、例えば中にあっても、ね、暑い炎天の最中にあっても、こういう楽しい生き方があるんだという、その道を体得させてもらう。道を学ばさせてもらう。
 神様が限りなく、与えてくださるところの、花の材料を、私共がいかに生けこなすか、生けあげるかというところに、信心の目標がおかれると、信心がもっと尊い、有り難いものになってくると思うのでございます。どうぞ。

梶原 佳行